【行ってみた番外編】矢祭町歴史探訪バスツアーに行ってみた(後半・覚英山清雄寺偏)

【行ってみた番外編】矢祭町歴史探訪バスツアーに行ってみた(前半・川崎大師偏)の続編です。

さて、川崎大師での興奮冷めやらぬうちに東京へ移動。

隅田区役所の裏手、見上げればすぐスカイツリーが見える場所に位置する「覚英山清雄寺(かくえいざんせいおうじ)」へ。

名前を聞いて「あ、その寺は!」と思われる方は少ないかもしれませんが、江戸時代の初期、徳川家康四天王の一人で出羽国鶴岡藩主酒井忠次の菩提を弔うために建立され、その後酒井家の菩提寺なった由緒正しきお寺です。

徳川幕府公認の歴代上人寺として代々構想が住職を務め、現在も関東・東北地方に末寺が十数ヶ寺あるほどのお寺。

こちらも東京大空襲で焼失した本堂に変わり、矢祭町(旧石井村)松本家より移築されたものです。

意匠の凝らされた彫刻。皆さん感嘆の声を揚げていらっしゃいました。

こちらも銅板葺き、総けやき造りだそうです。

お寺の方に案内されて、本堂の中に。私たちを迎えてくれたのは、天女でした。

こちらを含め清雄寺内外に残る見事な彫刻は、すべて福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身の佐藤朝山(玄々)氏によるもの。お寺でいただいた資料によると、昭和13年頃松本島之助最晩年(島之助は昭和15年没)に邸内に持仏堂として建てさせたもので、佐藤朝山(玄々)は50歳のころ松本家の屋敷内に5年ほど籠り、心身込めてけやき材を掘り出し制作したそうです。

参加者の皆さんの中からは、彫刻の美しさ、細かさ、すばらしさに声を上げる方もいらっしゃいましたが、

「これだけの彫刻をするには直径7尺(約210cm)以上のけやきじゃなきゃ無理だ」
「あれだけ太いけやきってことは、風の強い○○(地域名だったと思われる)のじゃないな(風が強いところだとひびが入ったりして、その跡などが板に残るから、というようなことをおっしゃっていました)」
「それにしてもあの硬いけやきにこれだけの彫刻をするってことは、ノミの刃をかなりダメにしたんじゃないか」

材木としてのけやきの価値と、その硬さゆえの苦労を偲ぶっていうのは多分矢祭という地域性ではないでしょうか。新たな視点で見ると、いかにこの建物に島之助が思いを注ぎ財力を注ぎ、時間を注いだかがわかりますね。

さて、この佐藤朝山(玄々)、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、昭和35年に「天女像ーまごころ」を制作しています。

 

日本橋三越本店 蔵
「天女像 まごころ」

写真はコチラからお借りしました

日本橋三越本店の中央ホールに置かれ、1階から4階まで吹き抜けてそびえる高さ11mの木彫作品です。

こちらの作品は制作に10年かかったとのことですから、それ以前島之助の邸宅で一心にけやきと向き合い数々の彫刻を掘り出した十数年後から制作に取り掛かったと考えられます。原作ともいえるかもしれませんね。

 

また、清雄寺にはこちらも残されています。

(天気が良すぎて、室内の我々の姿が反射して映ってしまった…残念の極み)

こちらは、棚倉町出身の日本画家「勝田蕉琴(かつたしょうきん)」作の襖絵「海涛群鶴(かいとうぐんかく)」。

蕉琴は昭和初期、東京芸術大学の創立に貢献した岡倉天心に見いだされた日本画家。
この襖は現在は清雄寺の客殿3階「鶴の間」にて展示されていますが、島之助の邸宅では持仏堂(現清雄寺本堂)の中にあったそうです。

昭和12年、蕉琴58歳という生涯の中でも最も脂ののった時期に制作されたもの。
制作の際は朝山同様松本家で過ごし、何日も酒を飲んでは寝を繰り返しながら構想を練り上げ、一気に描き上げたといわれています。

参加した皆さんは、先に見学してきた川崎大師で見た鐘楼堂・不動門と合わせてこの立派な本堂がかつて矢祭町(旧石井村)に存在したことに改めて驚き、またそれぞれがとても立派な建物なのに一個人の邸宅の一部にあったことにさらに驚いていらっしゃいました。

清雄寺では、どうして矢祭の島之助の邸宅からそれぞれに建物が移ったかという話を伺いました。

清雄寺、平間寺(川崎大師)とも戦火により寺が消失。通常であれば檀家の協力を得て再興ということになるのでしょうが、空襲によって全財産を奪われた檀家がほとんどでそれもかなわず、よそからの移築再建というのは戦後しばらくはさほど珍しくなかったそうです。

当時の清雄寺の住職の奥様が福島県と縁があり、島之助亡き後様々な事情で売りに出されていたこれらの建物の存在を知ることになりました。

同じく、そのことを知った平間寺の関係者も手に入れるべく矢祭に走ったわけですが、その際の条件が「先に手付金を打った方に」ということだったそうです。

福島に地縁があった清雄寺が先に手付の一部を支払い、本堂となりうる持仏堂を取得。

平間寺の関係者も手ぶらでは帰れないと遅れて手付を払い、鐘楼堂と山門を手に入れたということだそうです。

それぞれ東京から宮大工が矢祭にやってきて、丁寧に解体し汽車で運んだそうです。

清雄寺では、もともとあった本堂の土台の1階部分の上に再構築し、昭和24年5月から現在の姿となっているそうです。

ただし、往時をしのばせる姿のままみられるのは、あとわずかだそう。

実は、本堂自体は何の問題もないのですが、土台部分の劣化が激しく改築を余儀なくされているとのこと。

東京オリンピックが終わってから本格的に改築に着手するということです。

矢祭に由縁がある本堂の姿が見られなくなるのはとても残念ですが、檀家さんからも「せっかくの素晴らしい本堂を何らかの形で残してほしい」という要望が強く出ているそうで、使える部分は新しい本堂でも使っていきたい、とのことでした。

矢祭で造られ、時を超え場所を変えて、今もなお多くの人から思われている本堂を、私はとても誇りに思いました。

 

・・・ 実はこの後、江戸東京博物館に立ち寄り、特別展「士 サムライ 天下泰平を支えた人びと」も見学したのですが、ちょっとボリュームが大きすぎるので、ツアー報告はここまで。

矢祭と縁がある場所・建物に触れて、当時を偲ぶ貴重な経験をさせていただきました。

またチャンスがあったら参加したいです!

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