【行ってみた番外編】矢祭町歴史探訪バスツアーに行ってみた(前半・川崎大師偏)

ゆかいな仲間たちmaruです。

去る10/27(日)町主催の「歴史探訪ツアー」に参加してきました。
昨年に続き2度目の「歴史探訪ツアー」、毎回とても人気だそうで今回もあっという間に参加定員に達したそうです。

最初の行き先は…川崎大師

写真はすべてクリックすると拡大されます。それぞれにキャプションもつけたので、ぜひご覧ください。

正式名称平間寺(へいけんじ)、毎年初詣の参拝人数は300万人を超え、明治神宮・成田山新勝寺とともに不動のベスト3に数えられる、「あの!」川崎大師です。

まずは全員で参拝。ちょうど七五三シーズン真っただ中で、かわいい着物姿の子どもたちが境内で順番に記念撮影をしていました。ただし、今回の私たちの目的は、厄除けでもご祈祷でもなく。

総けやき造りの鐘楼堂

第一の目的は、立派な石垣の上に立つ鐘楼堂です。

石垣自体はもともと川崎大師にあったものですが、関東大震災で壊れその後昭和5年に再建。
しかし、その後関東の大空襲により焼失。今現在のものは昭和25年に移築再建されたものです。

総けやき造り銅板葺きの趣のある鐘楼堂ですね。

2つ目の目的はその鐘楼堂のすぐ先、今は「不動門」と呼ばれるこちら。

こちらも総けやき造り銅板葺きの二層楼門造りになっています。

どちらも、昭和23年ころまで矢祭町に遺されていたもの。
当時の石井村、松本家より譲り受けたものです。

こちらを建立したのは、石井村農家の長男として誕生し、17歳で商業をはじめ、その後金融業・こんにゃく粉製造販売・製紙共同販売・殖林事業を行い、大正期には「福島の山林王」とまで呼ばれた松本島之介氏(1856-1940)。

松本島之助氏肖像。晩年、5年間石井村長を務めていたこともあり、こちらの写真は役場の第1会議室に掲げられています。

「福島から水戸まで他人の土地を踏まずに行ける」と言われるほどの大地主で、大正7年には県の納税者第1位にまでなった方だそうです。

こちらのふたつの建築物はいずれも松本氏の邸宅内に作られていたものだそうで、使った欅はすべて自ら所有する山林から切り出されたものと言われています。

実は川崎大師のパンフレットや案内看板に「矢祭町(旧石井村)」とか「松本家」といった文言は一切記載されていません。(案内看板には「福島県の有縁の地より山門として移設された」旨は記載されていました)

が、以前、長年川崎大師とかかわってきたという方に境内で偶然お話を伺った時には、「矢祭っていう町の松本家から譲り受けたという話は、ずいぶん昔に当時の貫主から聞いたことがある」とおっしゃっていらしたので、何らかの形で語り継がれていたと思われます。

こちらの不動門は昭和23年からおよそ30年間川崎大師の山門として使用され、昭和52年現在の大山門の建設とともに境内の不動堂の正面に再移設され「不動門」として現在も寺を守り続けているそうです。

探訪ツアー参加者の皆さんの中には、

「子供のころ、川崎のおばの家に遊びに来た時にここにも来た。当時は山門としてむこう(現在大山門が立っている場所)にあった記憶がある。まさか矢祭からきていたものだなんて」

「子供のころ、松本家の邸内で遊んだことがあった。当時、立派な建物がまだあったことを覚えている」

という方も何名かいらっしゃいました。

現在松本島之助が暮らしていた屋敷の敷地内に、建物等はほとんど残っていません。

当時を偲ぶものとして、国道118号戸塚地区と中石井地区の境付近に残る、島之助邸宅の石垣。

上の写真はgoogleマップから引用したものですが、こちらの石垣は当時の松本家の邸宅を囲んでいたもの名残。

付近に残る蔵のうちのいくつかはかつては松本家が所有していたものだそう。

実は、松本島之助は近隣住民の多くにお金を貸していました。
それにまつわる噂話が今でも語り継がれています。
曰く、
「朝、高台から村を眺めて、煙が上がっていない(朝食の準備ができないほど金に困っている)家に行って島之介自ら金を貸した」
「返済時期になると、居留守を使いわざと返済期限内に金を受け取らず、その分延滞金をとった」
「島之助に金を借りると家や土地財産を身ぐるみはがされた」など。

一方で、今回のツアーのために学芸員の渡邉さんが作ってくださったしおりに書いてあってはじめて知ったのですが、

・都々古別神社(棚倉町)をはじめ各地の神社仏閣に寄進し、その名を刻んだものが数多く残されていること

・福島県立東白川農産学校(現修明高校・旧東白農商高校の前身)、石井小学校の増築など教育に関する寄付をしていたこと

・東白川地方の公共施設敷地の寄付

・県内外の災害の救済としての見舞金

・煙草収納所の誘致(煙草栽培の奨励)、銀行の設立

など、地域貢献にも尽力された方ということがわかりました。いわゆる噂話で描く人物像とはまた違う一面を垣間見た気がします。

矢祭町の松本島之助と全国に名の知れた川崎大師とのつながりを知る人は、町内でも実はかなり少ないのはちょっともったいないような気もしました。

【行ってみた番外編】矢祭町歴史探訪バスツアーに行ってみた(後半・覚英山清雄寺偏)へ続く

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